意気投合を願って
言わずもがなのことを、書きそえます。
歌詞の意味をあらわしている部分は、ほとんど説明を必要としないものと、わたくしは、考えています。
むしろ、意味をあらわさない部分が、この歌にはとまどいを誘うかもしれません。
はっきり言っておかなければなりませんが、おー や や や の掛声には、意味がまったくありません。ということは、どのような意味あいで、各人が受け取ることも可能にしているということです。そして、もうひとつ言えることは、ひとりひとり、あるいは、ひとりと多数、多数と多数、あるいはまた、ひとりの内部の呼びかけと応え、そのいずれかであっても、言葉にならない相応じあいを、含んでいるということです。
人生で、ほんとうに相応じあえたな、という瞬間をもつことは、実はそんなに多くはありません。無自覚なまま、通りすぎ、後でああ、あの時がそう、そうだったな、と思うこともあります。
おー や や や の掛声のところは意味をまったくもっていませんが、言葉になる以前のあるいは、言葉で捉えられない、そういう相応じあいの表現と、とってもらっていいかと思います。そして、まさに、言葉にしがたい、ぶつかりあいを、貴重なものとして確認しようというのが、この歌のなりたちです。
意味のない部分と、意味のある部分とが、補いあって、この歌は、できがっています。
人生もまた、そういうふうに成り立っている、と思うひとが出てくるとすれば、詩を書いた当人として、むしろわたしは喜ばしく思うものです。
南高校のみなさんへ
さわやかな、よびかけ合いの、かけ声ではじまる、木島始さんの詩がとどいたとき、忽ちぼくの中に、爽快なリズムと旋律のイメージがふくらみました。それをそっくり大切に育てて、こんな歌が出来ました。
青森は民族音楽の豊庫として知られています。ところで日本の民謡には、ちょうど、そのうたの顔みたいな、かけ声「ハヤシコトバ」が必ずといってよい程出て来ます。それはうたを生み、伝えてきた人々の心の、赤裸々な力強い表現です。ぼくにとって民謡がとても大切なものである一番大きな理由は、このハヤシコトバにあるといってよい位です。ついでながら、青森県の民謡は又、とびきり上等なハヤシコトバの豊庫でもあります。
木島さんは、もちろんぼくのこうした「ハヤシコトバ」への愛をよく知っていて、このさわやかなかけ声を冒頭に書いて下さったというのも本当でしょうが、でも、このかけ声は、詩人木島さんの心からあふれた、かぎりない未来への希望の表現だと思うのです。
そして、若い諸君が自分の未来への希望の力強い表現として、このうたをうたって下さるなら、それは又、ぼくのこの曲にこめた願いでもあるのですから。